舌が回らず、言葉がはっきりしないことを「呂律が回らない」などといいますね。 仏教では、お経に節をつけて唱えることがよくあります。これを声明(しょうみょう)とか梵唄(ぼんばい)といいます。現代風には仏教音楽でしょうか。
この声明には、呂(りょ)旋法、律(りつ)旋法、中曲の三種類の音階があります。そこから、呂律は声明の調子、音の調子、旋律という意味になりました。
京都・大原三千院には、声明にちなんで、呂川、律川と名づけられた川が流れています。
声明は日本の音楽に大きな影響を与えています。平家琵琶、謡曲、浄瑠璃、浪花節、今様、ご詠歌、各地の音頭、盆踊りなど、日本人の音楽の底辺には声明があるといわれ、カラオケでよく歌われる演歌も、その影響を受けているほどです。
呂律は「りょりつ」から「ろれつ」に変化し、言葉の調子という意味になったようです。
マイクを握ったら、あまり酔わないで、呂律正しく歌ってくださいよ。
(辻本敬順先生著・仏教用語豆事典より)
家を建てたり改築したりするとき、よく「普請」という言葉を使います。「道普請」という言葉もあります。普請とは、建築とか土木工事のことを言うようです。
普請は、仏教では、功徳を普く請いねがうという意味で、ひろく寄付をつのり、労役に従事してもらって、お堂や仏塔などの造営、修理をすることなのです。
それがその後、一般家庭の家屋などを建築したり修理する場合にも、使われるようになりましたが、最近では、住宅ローンで資金を借り入れて建築することが多くなったせいか、あまり普請という言葉は聞かれなくなりました。
(辻本敬順先生著・仏教用語豆事典より)
仏教では、学生は「ガクショウ」と読み、学匠とも書きます。もとは寺院に奇寓し、仏教以外の学問を学ぶ者に名付けられたようですが、日本仏教会では、仏教を学ぶ者に用いています。
真言宗の金剛業学生、胎蔵業学生や、海を渡って大陸に学ぶ人を留(る)学生、学んで帰国した人を還(げん)学生という具合です。
学者も学徒も、もともと同じ意味でした。比叡山を開いた伝教大師は、山内で学問をする学生たちの学則ともいえる『山家学生式(さんげがくしょうしき)』を著しています。
比叡山の衆徒は、学生である大衆と、一山の雑務を担当する堂衆とに分かれていました。
親鸞聖人は堂僧であったと伝えられています。常行堂に奉仕しながら、常行三昧を修める不断念仏僧だったようです。
いずれにしても、学生とは学問に従事する生徒のことですから、しっかり学問してくださいよ。
(辻本敬順先生著・仏教用語豆事典より)
坐禅(ざせん)の時などに、お尻に敷く敷物があります。直径30センチぐらいの円形でその中に蒲(がま)がつめられているものです。蒲の葉で編んだものもあります。これが、[蒲]の葉の[団]円、つまり、文字通り蒲団なのです。
現在、皆さんが使用されているふとんは、布団と書いて寝具です。敷きぶとんとか、掛けぶとんとか呼んでいます。そして、座る時に使うものには、わざわざ座ぶとんという名をつけています。しかも、常識的には四角形なのです。仏教の用具だった丸い座ぶとんが、四角形になり、いつの間にか寝具となっていったのですから、この変化は、まことにおもしろいですね。
(辻本敬順先生著・仏教用語豆事典より)
家の正面の入り口を「玄関」と呼んでいます。表入口という意味なのでしょう。みえを張って外観だけを豪勢にみせようとすることを「玄関を張る」といい、面会させないで客を帰らせることを「玄関ばらい」といいます。
この玄関が仏教語なのです。本来は建物の名前ではなく、玄妙な道に入る関門という意味で、奥深い教えに入る手始め、いとぐちを指していました。「禅門に入る」などがそれです。
この仏教語が建物の名前となり、禅寺の客殿に入る入り口を指すようになりました。
やがて、室町時代から桃山時代にかけて盛んになった書院造りに、その形式がとり入れられましたが、まだ庶民住宅には造ることを許されていませんでした。
江戸時代になって、民家や一般の建物にも広まり、明治以降は現在のように、正面入り口を呼ぶようになりました。
(辻本敬順先生著・仏教用語豆事典より
チューリップの花は、その球根から咲きます。球根が原因(因)で花は結果(果)です。しかし、球根だけでは花は咲かず、温度・土質・水分・肥料・日光・人間の細心最新の手入れなど、さまざまな条件(縁)が球根に働いて花は咲くのです。
このように、すべてのものには、必ずそれを生んだ因と縁とがあり、それを因縁生起=縁起というのです。現実には、因と縁と果とが複雑に関係しあい影響しあって、もちつもたれつの状態をつくっています。『阿含経』に「これある故にかれあり、これ起こる故にかれ起こる、これ無き故にかれ無く、これ滅する故にかれ滅す」とあります。
日常、よく「縁起が良い・悪い」という言葉を聞きます。吉凶のきざしという意味なのでしょうが、本来は、他の多くのものの力、恵み、おかげを受けて、私たちは生かされているという、仏教の基本的な教えなのです。
(辻本敬順先生著・仏教用語豆事典より)
「ご迷惑を、おかけいたします」「迷惑千万だ」から「近所迷惑」「迷惑駐車」まで、迷惑にはいやなめにあって、困ることを意味する日常語としてよく使われています。
迷惑は、もともと、道理に迷い、とまどうことで、どうしてよいか分からないで、途方にくれることを意味していました。
親鸞聖人は、仏の慈悲に包まれて、仏の力に生かされながら、なおも愛欲の絆にしばられ、名利を求めてさまよう自分に対する深刻な内観から、「悲しきかな、愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲の広海※1に沈没し、名利の大山※2に迷惑して……」と『教行信証』に記しておられますが、その迷惑がまさしく、この意味なのです。
(辻本敬順先生著・仏教用語豆事典より)
※1. 愛欲の広海=愛執・恩愛が深いことを海に喩えていう。
※2. 名利の大山=名誉心や物質的欲望が大きいことを山に喩えていう。